トム・ワトソンを支えたキャディ:ブルース

デビューから10年で世界4大 大会において計8回の優勝も誇り、

1988年、世界ゴルフ殿堂入りを果たした伝説のプロゴルファー

 

1973年、プロ2年目のトム・ワトソンが練習場で

18歳のブルース・エドワーズに声をかけられた

「僕をあなたのキャディにしてくれませんか?」

高校時代にアルバイトでキャディを経験、

高校卒業後はプロのキャディとして仕事を探していた

その熱意に押されワトソンは、ブルースを専属キャディとして採用する

ブルースの手帳には細かいメモがビッシリ書き込まれ、

パットの際のアドバイスも的確だった

現在はキャディが戦略的アドバイスをするのが普通だが、

当時はバッグを担ぎクラブを渡せば十分だった

 

2人のコンビは、快進撃を続け、

1977年から4年連続でアメリカのゴルフツアーで賞金王に輝いた

そして1982年、全米オープンで優勝した

だがその後、ワトソンはスランプに陥った

優勝から遠ざかり賞金ランキングは39位まで転落

思い通りのショットが打てない事から出場を見合わせる試合が増えた

試合に出なければキャディであるブルースの仕事もない

 

ワトソンは優しさから、他の選手のキャディになる事を薦め、

ブルースはワトソンの元を去っていった

ブルースはグレッグ・ノーマンからのオファーを受け、キャディとなった

ノーマンは世界中で様々な大会に出場し、好成績をおさめていた

ワトソンについていた頃に比べ、ブルースのギャラは2倍

一方、ワトソンは相変わらずスランプから抜け出せずにいた

そんなある日、「トム誕生日おめでとう」ブルースからの電話だった

「ノーマンのキャディはもう辞めようと思うんだ」

「今の生活を捨てる気か?キャディとして最高の舞台に立っているんだぞ」

「あぁ立ってるよ。でもどうせ立つなら…君と立っていたいんだ」

ブルースはワトソンのキャディに戻ることを選択し,

これまで以上にワトソンを支えた

そしてコンビ復活から4年、

1996年 世界最高峰のツアーで9年ぶりの優勝を果たした

 

ある日、物を上手く掴むことが出来ず、ろれつも回らないブルース

心配になったワトソンは、検査を受けさせた

すると、ALS(筋委縮性側索硬化症)と診断された

筋肉が徐々に衰えていき、最終的には手足を動かす事はおろか、

呼吸さえも自力でできなくなる

原因不明の難病で治療法は存在しない

「ALSという病気らしい。あと3年生きられるかどうか…だってさ。残念だよ、もっと君とコースに立ちたかったんだけどな。こんな体じゃ君に迷惑をかけ…」

「諦めるのか!僕はゴルファーとしてこれからも世界の舞台に立ち続ける!でもどうせ立つなら君と立っていたいんだ」

ワトソンは練習時間を調整しバッグの重量を軽減、

医師を探し出し、ブルースの為に最新の治療を提供

 

時間が残されていないことを悟った

2003年、全米オープン

招待選手としての特別参加でカートの使用を認められたが、

ブルースは自分の足で歩く事を決めた

これが最後の全米オープンになるかもしれない

次の瞬間 ベストを尽くす、それが2人のゴルフだった

最終日 最終ホール、2人を迎えたのは

「ブルース」の大合唱とスタンディングオぺーション

2004年4月8日、ブルース・エドワーズはこの世を去った

 

「トムと出会ったことが僕の人生で最高の出来事なんだ。病気になるとしてもう一度同じ人生を歩みますかって聞かれたんだけど、もちろんだ毎回 同じ人生を歩むよって答えた。僕は本当にラッキーなんだ」

と生前、ブルースは語っている

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